近年、報道被害が数多く発生し、マス・メディアが「敵視」される状況が深刻な問題となっている。一方で個人情報保護法成立のように、公権力によるマス・メディア規制は徐々に進みつつあり、表現・報道の自由が危機にさらされている。報道の自由を守りつつも、人権やプライバシーを大切にし、報道被害を無くしていくためには、取材・報道はどうあるべきなのか。また、公権力による報道への介入を防ぐためにマス・メディアがすべきことは何なのか。
マス・メディアによる報道は、第一義的に国民の「知る権利」に奉仕するものであり、民主主義存立のために「真実の伝達」が責任として課されている。しかし、メディアが正確な情報を伝えようとすれば、個人の名誉権やプライバシー権と衝突し、両者の調整を迫られる場面が少なくない。なんでも報道し放題とはいかず、基本的人権との調和や社会的利益との調節のために一定の規律には服さなければならないのである。またマス・メディアには、「公権力の監視」というもう一つの重要な使命がある。何物にも服さずに公権力を監視するためにも、その対象から規制を受けることを避けていかなければならない。今日のマス・メディアは、「商業主義への隷属」というべきほどに利益追求主義を強め、その体質に様々な弊害を生み出している。「警察のリークへの過度の依存」「犯人視報道」「横並びの『客観報道主義』が生み出す『メディア・スクラム』」「センセーショナリズムに基づく報道姿勢によるプライバシー侵害」「加害者少年の実名・顔写真を掲載するという『メディアの暴走』」などである。ところで、こういったメディア体質の弊害が生み出される経緯として注目できる点が2つある。まずは「記者クラブ」だが、公的機関の監視、情報へのアクセスの容易・迅速化といったメリットがある一方、当局側への偏向、便宜供与・官報接待、「発表ジャーナリズム」への堕落、閉鎖性といった問題点がある。もう1つは「日本のジャーナリスト教育」であり、その主流であるOJTの目的は「企業内ジャーナリスト」の養成である。職業倫理に乏しく、権力側に偏る姿勢を持ったジャーナリストが育成される傾向にある。現在の企業色を優先した各社別の OJTは、このようなジャーナリストを「再生産」しているのである。
報道被害が絶え間なく続き、市民のメディア不信が深刻なものになっている中、マス・メディア側も具体的な取り組みを始めた。民放連・新聞協会・雑誌協会は、メディア・スクラム回避に向けてそれぞれ見解を公表し、メディア媒体を超えた対策も行なっている。しかしながら実際の事例では、事態はそう簡単に改善されていない。また新聞社の「第三者委員会」制度は、「新聞社ごとに」設置された組織である。メディア・アカウンタビリティの第一歩になる面を多分に秘めている一方、構成員、人権救済機能などの面でまだ不十分な点が多い。さらに、新聞各社の対応では報道被害を防ぐことができていない現状を踏まえ、業界全体で対処すべきだという認識もメディア内外で起こっている。こうした新聞業界に対し、放送業界には業界を網羅する形での自主規制機関、 BPOがある。この組織の発足は、自主自律の強化に向けた放送界としての強い意思表示といえるのだが、やはりいくつかの問題点がみられる。「営業の自由」を求め発生した機関、市民参加のない機構の構成員、そしてメディアに有利な裁定要件、といったことである。マス・メディアによる報道被害が深刻化するにつれ、公権力による報道への介入の動きは顕著になった。その代表例が、「個人情報保護法」である。規制の対象であるメディア側にも責任はあるが、マス・メディアの範囲に時の公権力や行政が介入することは、極端な話、戦時中の日本の全体主義に通ずる危険なものである。こうした中、公権力による規制に対抗する形でメディア側による自主規制機関が設置され始めている。報道被害を受けた市民が救済を受ける手段として法的救済制度も考えられるのだが、市民側にとってきわめて不利な点が多く、満足な救済を受けられない結果となりやすい。法的な救済が不十分なだけ、メディア自主規制機関の重要性は高まってくるのである。
マス・メディアという監視の目が常に公的機関の至近距離に置かれることが不可欠である以上、記者クラブが即不要という議論には賛成し難い。したがって、従来から指摘されてきた弊害を改めるという形で、記者クラブの改革を図っていくことが重要だと言える。改革点は主に3つあり、記者クラブの原則的開放、便宜供与の会社負担への段階的移行、「専門記者制度」の確立である。記者クラブに属する記者は、クラブの役割を正しく理解し、安定した情報提供に依存することなくより質の高い報道を求めて切磋琢磨していかなければならない。
欧米では企業の外でもジャーナリスト教育が行なわれ、ジャーナリストを独立した「職業人」と見なしている。企業ごとのOJTがメインである日本では、「職業人」としての倫理が軽視され、優秀なジャーナリストを養成するというよりも、「優秀な企業人」が再生産されてきた。よって、組織の上部や外部から人権侵害にあたる報道・取材をするよう迫られたとき、記者たちは自らの職業的な使命感に基づいて自己決定することが非常に困難だったのである。現在の日本には、欧米に見られるような民間の独立スクールはないが、日本のジャーナリスト教育を見直そうという動きはでてきている。企業人ジャーナリストの再生産を食い止めるためには、企業外教育の充実を図り、社益や社内での自己利益だけにとらわれない「脱・企業ジャーナリズム」を実現することが重要なのである。メディア・スクラムを解決へ向け行なうべき努力として、従来のようなメディア媒体を超えた調整の他に、「新しいニュースバリューの模索」「署名記事」という2つの+αの方法を検討してみることが有効だと思われる。「新しいニュースバリューの模索」とは、事件直後以外の場所にニュースの価値を見出す努力であり、横並び報道の脱却に繋がる。また「署名記事」が原則化されれば、事実だけでなく記者自身の見解を掲載する機会が増え、記者の力量・責任が大きく問われることになる。そのため、報道が画一的なものでは済まされなくなるのである。
人権救済機関としてまだまだ機能しきれていない日本の自主規制機関を改革する上で、スウェーデンのマス・メディアが自主的に設立した報道評議会・プレスオンブズマン(PO)が非常に参考になる。これらの制度は、「市民的基盤」を持ち、市民のための人権救済機関として大きな役割を果たしていて、またその実効性も高い。さらに、これらの制度の整備によりメディアの自浄作用が市民から認められ、公権力による表現の自由への介入を排除してきたという歴史がある。日本においても、報道評議会・POの設立は、信頼の置ける自主規制機関実現に向けての画期的な動きとなり、市民によるメディア不信を払拭するための大きな一歩になると考えられる。
実際に「報道する」場面では、マス・メディアにどのような態度が求められるべきなのか。「被疑者報道」においては、「犯人視報道回避」「匿名報道主義の確立」という2つの提案がある。捜査当局の発表を鵜呑みにする「発表ジャーナリズム」を見直し、「推定無罪の原則」という理念を最大限に尊重した上で、事件の背景・原因などといった「公共性」を持った情報を積極的に報道する姿勢が求められる。「被害者報道」では、犯罪事実とは関係ない私生活をセンセーショナルに暴露する報道姿勢を改めなければならないが、被害者の意見・心情は「公共性」をもった情報であり、市民に正確に伝える必要がある。「少年事件報道」に関しては、コマーシャリズムに基づく被疑者少年の実名・顔写真報道は強く否定していかなければならないが、少年事件の発生を社会の病理として市民が論議するための「公共性」を持った情報は、積極的に報道すべきである。被疑者報道、被害者報道、少年事件報道、それぞれに共通して言えることは、「公共性の判断」である。つまりジャーナリスト側は、国民が社会事象について熟慮や議論をしていく上で必要と思われることを慎重に判断し、積極的に報道していくべきである。それこそが、本当の意味で国民の「知る権利」に応えることであり、公権力の報道への介入を防ぐことにつながるはずである。