2004年10月、埼玉県皆野町において本年度9件目の「ネット心中」が起こった。集団自殺した男女7人は、当日まで顔をあわせたことはなかった。ただ、「自殺クラブ」というネット掲示板で知り合い、集団自殺に及んだという。
ネット心中とは何なのであろうか。まず「ネット心中」あるいは「ネット自殺」という言葉自体に違和感を覚えた。ネットで自殺。それは自分がバーチャルな世界において作ったキャラクター同士をネット上において共に自殺させるものなのだろうか。実際は、インターネットでの掲示板などで知り合った人間と「実際に」出会い、皆野町での事件のように練炭による一酸化中毒死などの「心中」に至るというものだ。ネット心中という響きは、ネット恋愛、ネット友達というコトバがすでに存在し、ネット~にイメージを持ってしまっているせいか軽いものに感じてしまう。また、ネット心中という言葉に違和感を覚えた理由としては、「テレビ心中」や「電話心中」などといった、既存のメディアを利用している「心中」が存在しないからでもある。
インターネットの掲示板という相手の姿かたちが全く見えない空間で知り合い、自殺に及ぶネット心中は「場所」のみが共通しているネット心中には、ロミオとジュリエット、曽根崎心中、そして親子心中や宗教的心中で見られる「相手への責任、関連性」は全くといっていいほどみられない。そもそもその場をもって初めて会う人々なのだ。彼らの間を繋ぐものは「何をやってもうまくいかない。死にたい。」「生きている意味がない。死にたい。」といった自殺願望のみである。すなわち、心中掲示板に集まる人々は死ぬことが前提で集まっているわけで、問題解決の手段を探しつくしたあとの最終手段ではなく「死ぬ」という目的にのみ関連性が築かれているのである。このことは、相愛の者達が遂げる心中が「最終手段」として選んだそれに対して、お互い共に築いてきたものがない、「歴史なき心中」といえるのではないか。
また、「死ぬこと」を前提として掲示板に集まってくることにも疑問が出てくる。「自殺志願者の中には、自殺する方法はいくらでもあるのに、ネットワークで入手した毒物を使う人がいる。生と死のギリギリの極限でも、ネットワークで誰かに助けて欲しいという生存願望と、見知らぬ誰かにポンと背中を押して欲しいという自殺願望が、矛盾ながら同居しているような気がする」河﨑貴一氏は言う。だがしかし、自殺したいあるいは自殺しようという人々はもうこの世に未練のない人である。そういった人々がなぜ、掲示板、チャットといった人とのつながりを求めるような場所に来るのか。彼らには生への未練だけではなく、死の直前においても他者とのコミュニケーションを求めているのだろうか。それとも、心中掲示板は、やはりただ単に自殺願望を持った人々が集まり、「自殺マシーン」としての他者を求めている場所なのだろうか。
ネット心中を分析するにあたっては、「インターネットの特性」と「現代の死生観」の2点からアプローチしていく。第1章ではインターネットの特性をあげ、その一つである「匿名性」が心中掲示板に参加する人々の心理にどのような影響を与えるかを分析する。第2章においては、「死」から遠ざけられ死ぬことだけでなく、生きることの意味さえわからなくなってしまっている現代人の死生観について、『ドクター・キリコ事件』などの実例を挙げながら検証していく。そして第3章では、「ネット心中」というものに疑問・興味を持つきっかけとなった、皆野町事件の発端といわれている「自殺クラブ」というネット心中掲示板について分析する。