本研究は、サッカー解説者の松木安太郎に対するインターネット上での批難の声をきっかけとして、その批難の妥当性を客観的・定量的に分析し、サッカー解説者の意義と課題を考察することを目的としている。
スポーツ報道の意義を、①スポーツの本質的な魅力を伝え、視聴者に“見る目”を与えること ②文化の担い手としてスポーツの健全な発展に寄与すること と設定するとともに、その意義と相反する近年のエンターテイメントに傾倒するスポーツ報道をバレーボールワールドカップとJリーグを事例として考察した。番組全体がエンターテイメントに傾倒する中でも、解説者は専門家として自身の経験に基づく深い洞察や知識をわかりやすく伝えて視聴者にそのスポーツが持つ特有の魅力や楽しみを知ってもらうように努めるべきであり、それが解説者の意義であると考えられる。
インターネット上では解説者の役割を松木が果てしていないという批難の声が多く見られ、その客観性を検証するとともに批難される要因を考察するためにサッカー実況放送の内容分析を行った。解説者の発言を一つの意味のまとまりごとのコメントに分解し、それらは7つのコーディング基準でコーディングを行い、結果を比較対象の解説者(水沼・金田)と比較・考察した。
松木は解説者としての役割に逸脱するコメントを行う割合が20ポイント以上高く、松木への批難の客観性は実証できたと考えられる。コーディング結果の詳細な割合を考察することで、松木の解説者としての問題点は ①解説者のサポーター化 ②論拠や詳細な説明のない賞賛や批判 ③実況アナウンサーの役割への侵食 であることが明らかとなった。
スポーツの健全な発展のため、スポーツ文化を通したゆとりや充実感のある生活を人々が送るために、スポーツ報道ならびに松木をはじめとする解説者は、過去の反省と現状の認識を行い、役割・意義を果たせるように進歩するべきである。