本論文の目的はある社会的な出来事を映画がどのように捉えて、そして時代ごとに変遷していったのかを内容分析を通して明らかにし、その時代との関連性を読み解くことである。動機は、映画というものが、製作側の意向と観客側の受容性の均衡点を目安に製作側がつくっているものだと考えたからだ。今回の研究では第2次世界大戦後、アメリカ社会に多大な影響力を有した国際的な事件であるベトナム戦争を扱った。対象にした作品は1964年から2002年までに製作された映画のうち入手可能であった15作品である。
内容分析に当たっては、大きく2つのポイントに分けて映画を視聴した。「アメリカがどのように描かれているか」と「ベトナムがどのように描かれているか」である。この2点に関してはさらに細かい指標を設定した。前者は「a.アメリカ兵のベトナム戦争に対する思い」、「b.アメリカ兵のアメリカ兵に対する思い」、「c.アメリカ兵のベトナム兵に対する言動」、「d.アメリカ兵のベトナム民間人に対する言動」、「e.アメリカ兵の軍隊・国に対する思い」、「f.アメリカ民間人の思い」、「g.アメリカ軍の戦術」の7ポイント設定し、後者は「a.ベトナム兵のアメリカ兵に対する思い」、「b.ベトナム民間人のアメリカ兵に対する思い」、「c.ベトナム民間人のベトナム兵に対する思い」、「d.ベトナム軍の戦術」の4ポイントを設定した。またそれぞれの指標を「セリフ」と「映像」に分けたので、最終的には22ポイントの指標となった。
設定後、先行研究を概観し、15作品の分析を行った。その分析を基に15作品を、「第0次ベトナム戦争映画」、「第1次ベトナム戦争映画」、「第2次ベトナム戦争映画」、「第3次ベトナム戦争映画」の4つの時代に分類し、再度分析を行った。
「第0次ベトナム戦争映画」に該当したのは1作品のみであり、描かれていたのは正当化されたきれいなアメリカ兵であり、ベトナム側の実情を反映していないプロパガンダ作品であった。
「第1次ベトナム戦争映画」は1975年から1980年に製作された作品であり、4作品あった。そこで描かれているのは、帰還兵として苦しむアメリカ兵であり、加害者意識を排除した被害者の姿であった。またベトナム側を、集団で行動する理解不能の野蛮人として描いており、また戦争に関してもベトナム側を悪人として描くような、戦争の実情を反映していない描写が目立った。
「第2次ベトナム戦争映画」は1985年から1990年に製作された7作品である。本作品群では、戦場に向かう兵士や倒れていく兵士など非常にリアルな戦闘シーンが多く登場した。その中で、白人や黒人が対立するなど、その当時のアメリカ国内の様子を反映した描写も存在した。また前作品群には見られなかった、アメリカ兵のベトナム兵や民間人に対する酷い行いが目立つようになり、アメリカの加害者意識が登場する。しかし、精神的に肉体的にも傷ついたアメリカ兵が登場するなど、被害者意識も十分に見て取れた。ベトナム人に対しては、理解をせずに描いている部分があり、差別的な発言やアメリカ兵よりも劣っているような描き方がなされていた。
「第3次ベトナム戦争映画」は1990年以降に製作された3作品である。この作品群は作品数が少ない上に、ベトナム戦争への切り口が多様になってきている。革新的であったのは、ベトナム人を主人公にした作品や、感情をもったいきいきとした存在としてベトナム人を描いていることである。これは従来とは異なる大きな特徴である。しかし、一方で、戦争に傷つくアメリカ人がと羽状するなど、まだベトナム戦争において被害者でありたいというアメリカの意識も読み取ることができた。
こうして15作品を分析した結果見られて大きな流れとしては、2つあった。1つ目が被害者意識から加害者意識への流れである。1960年代から描かれたベトナム戦争において、初期では戦争によって傷つき、仲間に涙するような兵士ばかりが登場していた。それは戦争に傷ついた超大国アメリカの被害者意識の表れであった。やがて1980年代になるにつれて、ベトナムに対して卑劣な行いを働くアメリカ人が登場してくる。これはアメリカがそういった加害者アメリカを受け入れることができた表れなのだろう。しかし、未だに被害者として登場するアメリカ人も多く、傷ついたアメリカは出てくる。これが1990年以降になると、ベトナム人を主人公にするなど、アメリカの加害者意識が一層強調されるような作品も登場する。そういった作品においても、アメリカ人の描写を見ると、戦争の記憶に悩まされ自殺してしまう兵士が出てくるなど依然とした被害者意識は見られた。これはどんなにアメリカが加害者として描かれようとも、完全な加害者にはなりたくないアメリカの最後の抵抗のように思えてくる。2点目は、ベトナム人の描写の変遷である。初期ではただの理解不能な野蛮人として登場していたのが、終盤では個をもつ1人の人間として描かれていた。これはアメリカがベトナム戦争を許容できてきた証明ともなりえる。ベトナム戦争映画において、ベトナム人はただの部分ではなく、映画に不可欠な登場人物になりえたのである。
この研究によって1つの事象が時代を変遷することによって描かれ方が変わってくることの1例を示せたと思っている。今後は、こうした事象を素直に見つめた偏りのない作品が登場することを願っている。
(今西勢)